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カナダと「サツマ」みかん

目次
  1. 温州みかんの輸出先
  2. カナダのクリスマス・オレンジ
  3. みかんの呼び名
  4. 明治の日系移民
  5. スティーブストンのベニザケ漁
  6. 集団出稼ぎ
  7. アメリカ村
  8. 和歌山のみかん
  9. スティーブストンの子や孫たち
  10. 工野儀兵衛
  11. 二つの資料館

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1. 温州みかんの輸出先

日本の温州みかんの輸出先は、主にどんな国だと思いますか。

貿易統計*1では、最近2019年、2018年は、一位が香港、二位台湾、三位カナダ。

カナダは、1988年から2017年は必ず最大の輸出先でした*2。しかも、他の国よりずっと多く、いつも50パーセント以上を占めていました。二位、三位の国は年によって変わります。

ここ二、三年一位でこそないけれど、今もカナダの温州みかん輸入は続いています。

なぜカナダでこんなに日本の温州みかんを輸入するのでしょうか。

*1 マンダリン・タンジェリンと併せて一つの品目になっていますが、日本ではタンジェリンはほとんど栽培されていないので、ここでは温州みかんと考えます。

*2 1987年以前の統計結果が入手できません。しかし、温州みかんは1987年以前にカナダでの人気のピークがあったような気がします。

2.カナダのクリスマス・オレンジ

カナダ、特に西部では、よく温州みかんを「クリスマス・オレンジ」と呼びます。12月に店に出るのを楽しみにしている人も多く、親しい人への贈り物にもするそうです。

カナダの人々のブログを見ると、クリスマス・オレンジと共にあった子供時代を垣間見ることができます。

例えば、カナダは冬に果物が穫れないので、リンゴや梨の季節の後は、果物は船か鉄道で外国から来るが、そのひとつが日本から船で運ばれて来るみかんだった。

12月初めになると、バンクーバーの港にみかん箱をどっさり積んだ日本の船が着く。1980年代末頃までは、みかん船の到着は翌日の新聞で大きく報道されたものだ。華やかなオレンジ色のみかんが店先や食卓にいっせいに現れ、クリスマス気分が盛り上がった。

そして、クリスマスの朝は、吊るしておいた靴下のつま先に必ずみかんが入っていた。

洗濯場など寒い所にみかん箱が置いてあって、暖かい部屋で本を読みながら好きなだけ食べて、なくなると取りに行って、また食べたこと。

昔は頑丈な木箱に入ってきたので、その箱にペンキを塗っておもちゃや道具を入れる箱にしたり、踏み台を作ったりしたこと。

みかんがひとつひとつ色のついた薄紙で包まれていたので、その薄紙で遊んだこと……

3.「ジャパニーズ・マンダリン」から「サツマ」へ

20世紀前半まで、カナダでは温州みかんを「ジャパニーズ・マンダリン」とも呼んでいました。

でも、太平洋戦争開戦後、カナダの敵国となった日本からみかん船は来なくなり、ジャパニーズ・マンダリンという言葉も聞かれなくなりました。

現在、温州みかんは、より人気のあるクレメンタインやタンジェリンとあわせて「クリスマス・オレンジ」「マンダリン・オレンジ」などと呼ばれています。温州みかんを特定するときは米国と同じように「サツマ・マンダリン」と呼ぶようです。

ところで、カナダへ最初に入った温州みかんは、和歌山産でした。英国や米国に入った薩摩産とは異なる地方のものです。このいきさつは、次のようなものでした。

4.明治の日系移民

これは、19世紀末にカナダへ渡った日本人たちの物語です。

明治時代、日本は積極的に欧米の技術や文化を採り入れようとしました。その結果、社会に大きな変化が起こりました。

当時日本は農家が多く、家の息子たちが大きくなると、特に次男、三男は都市部に出稼ぎに行きました。

長男はやがて親の家の農業を継ぎ、結婚して家庭を持ちました。

次男から下の息子たちも、結婚して家庭を持ちたかった。しかし、普通の農家では皆に分けてやれるほど土地がありません。そのため、下の息子たちは出稼ぎを続けました。

十分にお金を貯めたらいつか故郷へ帰ってきて土地を買い、親や長兄と同じように農業を営み、家庭を持つことが夢とされました。

出稼ぎ先は東京、大阪など大都市が主でしたが、同じ感覚でカナダ、米国、南米などへ向かった人々もいたのです。

5.スティーブストンのベニザケ漁

カナダのバンクーバーでも、1877年から日本人が少しずつ材木業、漁業、農業などで働くようになりました。

ある日、バンクーバーの製材所に加わった新顔の日本人が、先輩たちに尋ねました。

自分は和歌山の三尾村から来た大工だ。村の生業は漁業だが、このごろ安定した収入が得られずみんな困っている。船乗りの親戚が、バンクーバーの近く、すてぶすとんという所には漁業の仕事があるかもしれないと言っていた。実はそれで見に来たんだが、すてぶすとんって、知っているか?

男がすてぶすとんと呼んだスティーブストンはバンクーバーの南約15キロ、フレーザー河が太平洋に注ぐ、小さな村でした。

実際に男がスティーブストンを訪れると、驚くような光景が目に入りました。ちょうど紅鮭の遡上の季節で、数えきれないほどの鮭が広大な河口を上っていたのです。

男は、これこそ自分の求めていた新天地だと感じました。早速村へ手紙を書き、まるで泉に水が湧くように、次から次へと鮭が川を上っていく。きっと仕事があるだろうと知らせます。

村では、男たちの集団出稼ぎについて、心配も、反対論もありました。しかし、失職者は多く、男は郷里では知られた棟梁でした。あいつが言うならやれるだろうと思わせた、人となりもあったのでしょう。

さっそく翌年1889年から村民たちが渡航するようになります。

6.集団出稼ぎ

この出稼ぎは、大成功でした。スティーブストンは鮭漁や鮭缶づくりで繁盛し、出稼ぎ者は、三尾など郷里の村へ潤沢な送金ができました。

1900年にはすでに二千人の日本人が移住していました。当時、スティーブストンなどブリティッシュ・コロンビア州各地への日本人移民が急増し、現地では反日感情が高まったほどでした。このため、1908年に日本とカナダの間で紳士協定が結ばれ、この後基本的に年間男性400人しかカナダに移民できなくなりました (林=ルミュー協定)。

やがて、スティーブストンで家庭を築きたいと考える人が出てくると、「写真花嫁」という方法も採られました。配偶者が移民ビザの制限対象でなかったことから、日本の親戚などに独身女性の写真を送ってもらって配偶者とし、現地で妻を迎えたのです。

こうしてカナダで家庭を持った人々は、子供をカナダの小学校に入れることもありましたが、小学校に上がるころ帰国させ、祖父母の下で日本語の力を付けさせ、日本の学校へ行かせた親も多かったといいます。

もちろん、家族でカナダへの永住を選んだ人々もいました。

この集団出稼ぎは、太平洋戦争開戦時まで続きました。1940年にもスティーブストンに二千人の出稼ぎ者がいたといいます。三尾の人口が二千人もなかった時代です。

7.アメリカ村

このうち、ある人々は、カナダの生活スタイルにすっかり慣れ親しんでしまいました。

そのため、引退して三尾に帰った人たちの建てた家には、日本式だけでなく、和洋折衷型の建築や、ガラス窓のはまった洋館もあるのです。

出稼ぎ者の引退村のようになった三尾で、人々は豊かな洋式の生活を楽しみました。食事にテーブルと椅子を使い、外出にはコートと帽子を身に着け、蓄音機でレコードを聴き、ベッドで眠る。また、会話には頻繁に英語の単語や表現が混じりました。

このようなハイカラな雰囲気のために、三尾は「アメリカ村」と呼ばれるようになりました。もちろんカナダですが、太平洋の向こうはアメリカ大陸、という感覚だったそうです。

8. 和歌山のみかん

スティーブストンで暮らした日本人は、冬になると郷里和歌山からみかんを取り寄せました。お正月には、日本でするように鏡餅にあしらったり、食べたりしたのでしょう。

和歌山は江戸時代から、みかんの名産地です。もとは紀州みかんで有名でしたが、このころ種のない温州みかんの栽培も盛んになっていました(関係記事『サツマみかんとは何か』をご参照ください)。

お国自慢のみかんを友人やお世話になった人と分けたり、贈り物にしたりしたことが、カナダのクリスマスオレンジの習慣と結び付きました。

まもなくカナダの貿易会社も日本の温州みかんの輸入・販売を始めました。こうして、カナダ人の間では温州みかんがクリスマスの風物詩のようになったのです。

太平洋戦争前後10年ほど、日本のみかん船はバンクーバーを訪れませんでした。しかし、輸入が再開すると、カナダで温州みかんをクリスマスオレンジとして、毎年楽しみにするようになったのです。

9.スティーブストンの子や孫たち

ところで、明治時代に働き始めた出稼ぎ者はもちろんのこと、初めてスティーブストンで生まれ、育った子供たちも、カナダの学校に入ると、英語に苦労しました。反面、日本語は母語であるか流暢だったので、三尾の親戚との間には手紙や荷物のやり取り、訪問など、太平洋をはさんで頻繁に交流がありました。

一方、渡航者の孫の世代になると、基本的に英語が第一言語で、自分はカナダ人だと考えました。ですから、日系カナダ人を自認しているのに第二次大戦で敵国出身者として扱われた時はつらかったでしょう。

戦後、選択肢を与えられると、日本へ強制送還された約400人のうち、ほとんどはカナダ人となってカナダへ戻ることを選びました。

この世代以降の日系カナダ人は、三尾が自分のルーツだと知っていて、旅行で訪れることはあります。でも、たとえ親戚がいても、もう個人的な交流はないようです。言葉が通じなくなってしまったからです。

10.工野儀兵衛

三尾からスティーブストンへの最初の移民となり、村人たちを出稼ぎに誘った大工の棟梁の名は、工野儀兵衛。

和歌山の多くの人々が安心して出稼ぎに来られる環境を整えた功績で知られ、カナダ移民の父とも呼ばれました。日本食料品店兼下宿を経営し、20年ほど渡航者の世話を続けました。

和歌山に妻と子供を残した状態で移民し、カナダでの仕事にあまりに精力を傾けたので、一時帰国した時、妻はすでにほかの男性を夫としてしまっていたといいます。

カナダの冬は厳しい。やがて儀兵衛はリューマチを患いました。

症状が悪化し、57歳の時、事業を親族に引き継いで帰国。その6年後、1917年に和歌山で亡くなりました。最期まで、もう一度懐かしいスティーブストンを訪れたいと言っていたそうです。

11. 二つの資料館

明治時代の出稼ぎ者の子孫である日系カナダ人が、最近三尾を訪ねた時の話を読みました。三尾の緑濃い山々が入り江まで迫る感じが、スティーブストンの風景に似ていることに心を打たれたといいます。

また、三尾の「カナダ資料館」」で、出稼ぎ者たちが持ち帰ったさまざまな物を目にしました。カナダの生活で使っていたもの、カナダの文化を表すもの。故郷に豊かな暮らしをもたらしてくれたカナダの思い出を大事にした人々は多かったのでしょう。

カナダ資料館は2015年に閉館しましたが、2018年7月に別の団体が同様にカナダ移民にちなむ資料館「カナダミュージアム」が開館しています。

一方、ブリティッシュ・コロンビア州のスティーブトンにも、Japanese Fishermen’s Benevolent Society Buildingという建物があります。スティーブトン博物館のかたわらにあり、展示物によって、工野儀兵衛と日系カナダ移民の記憶を語り継いでいます。

どちらも、いつか行ってみたいと思います。

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